人生そのもの
みなさん「ピタゴラ装置」をご存じでしょうか。NHK番組のピタゴラスイッチのコーナーに登場するからくり装置です。小さな玉が軌道を転がり、さまざまな仕掛けを巧妙に通り抜けて、ゴールに到着するストーリはハラハラしながらも楽しいですね。
スタートした玉には、いくつもの仕掛けが待ち構えています。調子よく転がるときもありますが、急に方向が変わる。落とし穴に落ち、行き止まりに突き当たるが、次の道に通じている。何度も止まり、いくつもの分岐をくぐり、危うい場面を通り抜け、ようやくゴールにたどり着く。
これは人生そのものではないでしょうか。玉が自分とすれば、仕掛けとは出会いや出来事です。私たちは、思い通りにならない世界を必死に走り、多くの仕掛けに翻弄される。先の見えぬ恐怖におののき、突然の不運に身を嘆く。ときに救われるが、また憂き目にあう。しかし、なんだかんだあっても、結局進んでいる。
そして、ゴールにたどり着き、振り返ったときに気づくのです。すべての仕掛けはここに導くために用意されていたのだと。人生は仕掛けがたくさんあったほうが楽しいし、行き着くところは決まっている。だから、安心してぶつかり、穴に落ち、迷い、転がっていこう。でも、できたら次の仕掛けが分かったほうが助かります・・・。
神視点と時空
ピタゴラ装置を異なった視点から見ると、世界観が変わります。
私たちが小さな玉になり、装置を走っている様子を想像して下さい。目の前の見える世界がすべてになります。穴や壁に突然遭遇し、その先はどうなっているのか知る術がありません。しかし、脇道に逸らされたり穴に落とされながら走っていくとすぐに次の道が開けます。通過してから、どんな道(=ストーリー)だったのか理解できるのです。
今度は玉を離れて上空に移動し、装置全体が見える視点に立って見てください。スタートとゴールが見えます。玉の現在位置、仕掛けの全てが分かります。人生に例えると、スタート地点が私たちの「誕生日」、玉が「今」、ゴール地点が未来の「死」となります。
この視点から見ると、全てのストーリーが一瞬で把握できます。これが「神視点」です。いつ生まれ、いつ死ぬか。どんな出会いがあるのか。全て瞬時に認識できます。つまり神視点から装置という人生を見ると、過去も現在も未来も、直線ではなく、同時に存在していることが分かります。次元が上がった世界観ですね。しかし、玉視点の私たちは、終わってみないとストーリーがわからない。そのために時間と空間(=道)が必要なのです。これが、私たちが必死で生きている世界観なのです。
仮に神さまのような高次元の創造主が存在し、低次元の私たちを空から見ていたなら何て思うでしょう。「いつまで終わった仕掛けを気にしてんねん」「抗っても無駄やで」「勇気出せよ。すぐに次の扉が開くから」「心配性やな」とカフェラテ片手につぶやいているかもしれません。全てを把握しているから安心して鑑賞できるのです。一方私たちは先が見えません。いつのまにかスタートし、気づけば必死で走らされ、たくさんの仕掛けに翻弄され、結局ゴールしている。そして終わったあと、ようやくストーリーに気づくのです。「全てはつながっていた、こうなるしかなかったのだ」と。
自由意志はあるのでしょうか!?
ピタゴラ装置は、小さい玉が転がり始めるところからスタートします。玉が置かれて、レールに従って坂を転がり始めます。見方を変えると、小さな玉は、誰かに置かれて、誰かに敷かれたレールを、重力に従って下っています。抗えない力に”転がされている”とも言えます。
ここで小さな玉を私たち自身に置きかえ、「自由意志」の存在について考えてみましょう。私たちは、いつのまにか誕生し、両親の子になり、勝手に名前という記号を付与され、気づいたら人生がスタートしていました。自分の意志で始めたわけではありません。そして、気づいたら幼稚園に通わされ、いつのまにか周囲の人間が友人になる。いつのまにか恋に落ち、したくないのに喧嘩をする。買い物は、お店の場所、宣伝や口コミに影響され、陳列された商品の中から選ばされている。それも値札や記憶の影響を受けている。
進学や就職先も同じだ。お店まで自分の意志で歩いているようだが、実は道に沿い、道に従い、道に歩かされている。だから阪急電車で行くのではなく、阪急電車で行かされているといえる。職場では他人に意味不明に怒られ、怒りや悲しみという自分の感情ですら抑制できず、頭には次々に思考が湧き出て止まらない。心拍や消化、排泄、呼吸、血流は、当然自由に動かせない。体の生理反応に従ってただご飯を食べ、トイレに行かされ、眠たくなったから眠りに落ちる。
さて、ここに自由意志はあるのでしょうか。
私たちは自分の意志で行動しているようで、実は周囲の環境に「無意識反応」しているだけともいえます。自由意志は後づけで、幻想なのです。みなさんも、今日の行動や人生を振り返って下さい。純粋に自分の意志だけで行動しましたか? 全てはピタゴラ装置の仕掛けに、ただ反応させられていただけ、と気づくでしょう。これが東洋で「縁」、西洋で「摂理」といわれているものです。
私たちは誰かに置かれた小さな玉のように、転がされ、たくさんの仕掛けに反応し喜び嘆いているだけかもしれません。そして、突然ゴールをつきつけられそのとき振り返って気づくのです。「全てはそうなるようになっていた」と。
お陰さまで
ピタゴラ装置は人生そのものというお話をしましたが、今度は、地球上に70億人分のピタゴラ装置が張り巡らされているとイメージして下さい。たくさんの70億個の玉が転がり、仕掛けを動かし、巧みに止まることなく壮大な「世界ピタゴラ装置」が稼働し続けているのです。
ピタゴラ装置はひとつでも部品が欠けると停止します。ひとつの仕掛けが止まると、すべての連鎖が停止し崩壊してしまう。つまり、すべての玉と仕掛けの「存在」が大切ということです。大きくて綺麗で目立つ玉があれば、小さすぎて目立たない玉があります。早く走る玉があれば、遠くに出かける玉があり、動きが少ない玉もある。全ての玉が様々な仕掛けを動かし相互に影響する。そこに上下関係や優劣はありません。大きな仕掛けを動かしたから良い、ゆっくり転がるから悪いという「判断」もありません。ただ「そうなっている」「存在している」だけなのです。
私たちの人生も「世界ピタゴラ装置」の中で他人と互いに関係しつつ流れているだけです。私たちは玉視点しか世界が見えないので、限られた因果関係しか理解できません。しかし、己の力で装置を世界を動かしているのだと自負する人も、神視点から見れば玉のひとつにすぎません。お互いがあってこそ成り立つ関係なのです。
個々の私たちはちっぽけな存在のように感じますが、誰ひとり欠かせない存在です。ひとつ欠けると「世界ピタゴラ装置」は崩壊します。「私の存在」が「世界の存在」。私たちが世界であり、世界が私でもある。私たちは「ひとつ」なのです。誰かが名声を得ることがあっても、それは自力ではなく、多くの人の相互関係の存在の賜物です。「お陰さまで」という言葉は、檜舞台の「陽」に当たる人だけでなく、たくさんの見えない「陰」の力の存在を表現している言葉なのです。